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ETC総輸入代理店
株式会社剣プロダクションサービス 会長

 
京都生まれ、北海道&アメリカ&東京調布育ち。 
アメリカでは多くの人々の日常生活に演劇が身近に存在していることもあり、学生時代に何となく始めた演劇照明スタッフからのめり込み、そのまま舞台照明の道に。劇団スタッフ、会社員、フリーのコーディネーターを経て、1985年に(株)剣プロダクションサービスを創立。1995年にETCと代理店契約を結び、2002年に正式に日本総代理店へ。 
 

 1955年、宣教師の父と母の間に京都で産声を上げ、父の仕事の影響で幼い頃は日本国内やアメリカを数年おきに行き来する生活を送る。 中学2年生の時にアメリカンスクール・イン・ジャパン(A S I J)へ転入し、寮が同じだった先輩が舞台照明をやっていた影響もあり、高校1年の時に何となく舞台照明の道へ....。
 

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[当時のアメリカ演劇事情] 
アメリカでは大小問わず多くの劇場が存在し、ほとんどの学校に演劇のクラスがあるため、人生において多くの人が何らかの形で演劇に携わる。学生時代に参加し、大人になっても趣味としてそのまま演劇を続ける人も多く、ETC社のあるウィスコンシン州マディソンでは、アマチュアだけでも30〜50近くの劇団が存在し、それぞれの劇団が年2〜3回の公演を行うため、年間を通して劇場は賑わっている。映画や音楽、スポーツ鑑賞と共に娯楽として演劇鑑賞が身近にあり、休日だけでなく平日にも鑑賞するため多くの人々の心を癒す存在になっている。 

 

 
18歳の頃にベトナム戦争が終結し、人生初の演目もベトナム戦争が題材だった。セットは舞台中央に設置した「木」のみで、銃で打たれた兵士の死ぬまでに見た走馬灯がテーマ。調光はオートトランスの時代、インカムはテープレコーダーを改造、ローホリはアルミホイルでリフレクターを作り、ナス球と木材でDIYなど、作れそうな物はアイデアを絞り出して自作した。自作出来ない備品があれば学校長に直談判、ついでに交渉の末「髭ボーボーの高校時代」も勝ち取った。また、洋服縫製のバイトで小遣いを稼ぎ、三ヶ月間ある夏休みにはヒッチハイクで北海道と東京を三往復。ドライバーさんと仲良くなってご飯をご馳走になるなど、知らず知らずの内に交渉術と図太さ(笑)が磨かれていった。当時、丸茂電機にカラーフィルターを買いに行った際、帝国劇場の写真が貼ってあるのを見て「いつの日か劇場を建てることに携わりたい」と漠然と思った。
後に母校である
A S I Jの劇場改修工事にシステム開発で携わることとなる。 
 

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[当時のA S I J事情] 
当時のA S I Jは、三分の二がビジネスマンや大使館関係の子供達で、残りが宣教師の子供などが在校していたため、学校内格差が激しく、日本支社長の子供や大使館の子供達が幅を利かせていた。芸能人も多く所属しており、テレビやコンサートの傍ら通学していた。 
当時のエピソードとして、アンドレ・カンドレ時代の井上陽水氏がA S I Jへ歌いに来たことがあり、そのコンサートでケンが照明を担当した。ひょんな事から意気投合し、寮に来てギターを弾いてくれた。卒業後、たまたま新宿を歩いているとレコーディングに向かう前の陽水氏と偶然再会する。当時、池尻大橋にあったポリドールのレコーディングスタジオにそのまま同行し、「夏まつり」のレコーディングを見学させてもらった。 

 

 
高校時代、アメリカ公演を計画していた劇団カッパ座から「A S I Jの生徒に演劇を見てもらいたい」という要望があり、学校側から照明を任されていたケンが対応することに。髭ボーボーを勝ち取っていたケンが先生だと勘違いされていた事は言うまでもない。そんな縁もあり高校を卒業し、カッパ座に入団。劇団カッパ座は、1968年に設立された大阪に拠点を置く等身大ぬいぐるみ人形劇団で、一つの芝居を数ヶ月かけて作っていき、1年かけて全国を回る活動をしていた。その頃は貧乏だったが周囲の人達に助けてもらいながらなんとか生活をし、2年目のアメリカ公演の際には舞台監督を務めるまで飛躍したが、自分のやりたい事や成長のため、カッパ座を離れて東京へ戻り、フリーで活動する道を決断する。 
  

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カッパ座の先輩である西山さん(ex日本照明家協会会長)の紹介で(株)共立とフリーで契約する事になる。相変わらずお金もなく、朝食と昼食を抜いて、お世話になっていた炉端焼き屋さんを手伝うことでバイト代として夜食をご馳走になる生活が続いた。 
共立時代、みんなが憧れていたピン(スポット)の仕事を自分もやりたかったが、フリー契約という事もあり、順番待ちをしている余裕もなく、一番大変そうだがその分チャンスのありそうな「電源」の仕事を選ぼうと、ポール・モーリアのツアーの際に電源担当の先輩に直談判して仕事を教えてもらった。親を頼らず生きていくためにどんな事でもやってやろうと意気込み、ツアーが終わる頃には電源担当を任せられるようになり、少しずつお金も貰えるようになっていった。この頃、(実は初代剣プロの社長である)夫人と結婚。
5年後、共立の正社員になったケンは海外アーティスト公演のコーディネートチーフになっていた。ボブ・ディラン、ダイアナ・ロス、ジャニス・イアン、キャロル・キング、ビリー・ジョエルなどの大物アーティストの来日に備え、
海外から公演用の図面が届き、機材を手配しなければならなかったが、まだ外国製の照明機材を揃えられる時代ではなく、日本国内の機材でどのようにアレンジしてデザインを再現すれば良いかを考える必要があった。日本仕様の図面へと修正し、来日したスタッフとの打合せ、そして最終準備から仕込みへという一連の流れ。東京→名古屋→大阪→東京の4回公演を1週間で行うことも多く、どうすれば仕込みが楽になるかなど、学生時代に培った様々な経験を活かし乗り切った。 
共立時代に印象に残っている出来事として、照明を担当する予定だったポール・マッカートニーのソロでの日本初公演。スタッフとの打合せが終わった6時頃、家に帰る途中のタクシーのラジオから「ポールが大麻所持で逮捕された」というニュースが流れてきた。もちろんコンサートはキャンセルとなり、幻の日本初公演となった。 
 

 

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ケンが30歳の時、長女誕生と同じ年に独立し、会社設立(1985年5月30日)日本では「プロダクション」と言えば芸能事務所のようなイメージが強いが、英語の「Production」は裏方のイメージが強く、「色んな裏方仕事をします」という意味を込めて「Ken Production Services Inc.(株式会社 剣プロダクションサービス)」と命名。「剣」という当て字は「業界を切り開く」というちょっとキザなメッセージを込めたつもりだったが、実際はなかなかうまく行かず、その刀は空を斬ることに...。 
独立して初めての仕事は香港で行われた海外アーティストのライブのコーディネート。その次が両国国技館での国内最大自動車メーカー新車発表会で、車を天井から5台吊って動かすという大掛かりなショーだった。その後、ミュージカル「ドリームガールズ」、「スターライト・エクスプレス」、「ミス・サイゴン」など、数多くのコーディネート兼通訳業を請け負っていく。海外のスタッフが日本ツアーから自国へ帰ると「日本にはケンというヤツがいる」と業界で広めてくれたおかげもあり、仕事は徐々に安定し、会社設立の4年後に次女が誕生、さらにクラブやディスコ、店舗照明などの仕事も増えていった。ある日、N H Kホールで行われるナンシー・ウィルソンのコンサートの仕事に車で向かう途中、初台の交差点で偶然知り合いの車が隣に停まり、少し会話をして別れたが、コンサート終了後、さっきの知り合いから「自分の隣に座っていた人が今度北海道でディスコをプロデュースするんだけど、相談に乗ってくれないか」と電話が掛かってきた。札幌の日本初テーマパーク型ダンスクラブ「キングムー」という当時の最新ディスコだった。照明デザインが思うように進んでおらず、世界的に有名な照明デザイナーであるケン・ビリントン氏を紹介し、そのまま一緒に関わるようになる。そこで当時ウシオユーテックで働いていた内海(現取締役社長)と出会った。 
 
1991年頃、バブル崩壊と共に次第にミュージカルの公演も減り、コーディネートの仕事も徐々に減っていった。「ミス・サイゴン」の頃にたまたま海外製ゴボの輸入依頼があり、元々輸入をやるという考え自体なかったが、それを機に初めて輸入販売をする事になった。またこの頃になると海外メーカーが次々と照明機材を開発していた事もあり、アメリカで行われているライティングテクノロジー機材の展示会「L D I」へ、日本の照明会社のための通訳兼ツアープランナーの依頼が舞い込み、毎年ツアーに参加させてもらう事になる。 
 

 
当時、まだ無名に近い弱小メーカーだったE T CElectronic Theatre Controls)が、1992年にエリプソイダルスポットライト「SourceFour(ソースフォー)」を発表し状況が一変する。販売開始時には一年間の出荷台数が3,000台程度だったSourceFour、1993年、展示会が開催された3日間だけで3万台を売り上げるほどの大反響となっていく。 
その夏、当時プロダクションアーツに在籍し、照明のデジタル通信企画DMXの開発メンバーの一人でもあるスティーブ・テリー氏が初期ロットの1台(日本のソースフォー 第1号と認識)をケンへ送ってくれた事もあり、その1台でデモを始めた所、すぐにオーダーが入るほど好反応だった。銀行からやっとの思いで融資を受け、20フィートサイズのコンテナ分のソースフォーを輸入し、借りた倉庫や自宅にソースフォーを保管し販売を開始した。 
同年の冬、通訳として初めてE T Cへ訪問する事になる。板金、吹きつけ塗装、ソースフォーの組み立て作業、操作卓の開発スペースなど、50〜60人が働く広い工場という印象だった(*現在、E T Cは全世界で1,000人を超える従業員を抱える大企業に成長)。生まれ育った北海道を思い起こさせる気候のウィスコンシン州の冬、裸足でカーペットを歩いてくる人物がいた。E T Cの創業者、故フレッド・フォスター氏だった。その後、フォスター氏が亡くなる2019年まで二人の交友関係は続く。 
 

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世界中でソースフォーが大人気となっていた1995年の夏、ついにE T Cと正式に代理店契約を結ぶ。そして札幌で出会った内海が合流し、現在の剣プロダクションサービスの基礎となる体制が整う。 

 
そして2022年現在、会社設立から36年、E T Cと共に歩んで25年、現在従業員20名強となり、お客様に満足してもらうため、可能な限りほとんどのE T C製品の輸入販売とサポートを行い、「バブル崩壊」、「9.11」、「リーマンショック」、「3.11」、「コロナ」の苦境を乗り越え、日々、E T C製品を日本中のユーザー様へお届中。